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zoom RSS 貧乏小学校が日本一になった日

<<   作成日時 : 2011/12/26 07:54   >>

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「郡(宮城県刈田郡)でも貧乏村として知られていた」大鷹沢村の小学校が全国学校植林コンクールで一位に選ばれたのは昭和31年(1956年)ことであった。当時、小学校の児童会長であった私は、三沢幸子(羽根幸子)さんと共に学校の代表として、農林省で開催された表彰式に出席、当時の清瀬一郎文部大臣から表彰状を授与された(写真)。当時の私にとっては、代表として東京に行くことは、後の時代のニューヨークに行くようなもので大ごとであった。私たちは引率の大槻金雄先生や米竹幸治校長、県庁の担当者と共に上京し、赤羽の「宮城旅館」というところに宿泊した。東京のネオンサインを見たりパトカーのサイレンの音を聞いたのはそれが最初であった。

表彰式では、全国から集まった代表者たちを前に私が「体験発表」を行った。少し以前に小学校で開催された校内研究発表会での児童会長挨拶がはちゃめちゃであったことを担任の中野新二先生から叱られたばかりであったので、私は慎重に原稿を見ながら話し、帰ってからの全校生徒を前にした報告でもかなり落ち着いて発言するようになった。私は後年様々な組織、団体の役員に就任し、人前であいさつしたり、授業や講演を行うことが多くなったが、小学生のときの経験をいつも思い出している。

全国学校植林コンクールというのは、現在の公益社団法人国土緑化推進機構の前身である森林愛護連盟、および、昭和25年(1950年)活動を開始した国土緑化推進委員会などの活動の中で行われたもので、宮城県や私の村、および村立小学校が特に力を入れていたものである。私たちの当時の理解では、吉見庄助氏が大鷹沢小学校の代用教員であった時代の村長志村留五郎(注1)が村の将来を考えて村一番の高さの山である毛無山に120ヘクタールの植林を行ったとのことで、私たちの認識では志村村長は偉人であり、植林日本一を記念して、志村村長の頌徳碑が小学校に建立された(注2)。また、元治元年(1864年)には、当時の村の肝入であった大野治佐衛門によって、弁天沼のほとりに「禁伐木碑」が立てられている。大野家は、代々通称あほばらこと、天桂院の総代人であり、故大野直博氏が天桂院の再建に執念をもっていたのもそのためである。大野直博氏の父直亮氏は、私が小学生の頃の村長であった。

昭和15年頃の大鷹沢村は、373世帯、人口2436人、尋常小学校の生徒数452人、高等科106人であった(『宮城県町村年鑑』1941)。

<注1>私が中学生の時の大鷹沢中学校の校長であった佐々木保治氏によると、志村留五郎は元愛島尋常高等小学校(現在の名取市愛島小学校)の教諭であったとのことだ。佐々木氏は大正5年4月、愛島尋常高等小学校に入学、佐々木氏が6年生になった6月に志村教諭は任期途中で退職し、故郷の大鷹沢へ戻り、村長となった模様だ。志村教諭は在職中、20町歩の植林を行い、40年後、愛島尋常高等小学校はその木を200万円以上で処分し、新制中学のための校舎建築費用に充てたとのことである。中学時代に私はハーモニカ・バンドを組織して演奏したことなどから、佐々木校長から大変称賛され、卒業時にも特別にメッセージをいただいたことがある。
(佐々木保治「人生の縁―志村留五郎先生―」『25周年記念誌』大鷹沢中学校,1972年)。

<注2>植林日本一の祝賀会と志村村長の頌徳碑の除幕式は昭和31年(1956年)12月18日行われ、私は生徒の代表として新築の体育館兼公民館の目録を校長に提出した。この建物はその後村の映画会をはじめ各種の催し物の主たる会場として使用されることとなった。それまでの映画会は、小学校の校庭で行われていた。)

<写真>新聞に掲載された全国学校植林コンクールの表彰式(『河北新報』1956年11月1日)
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