危機の夏

東京で迎えた二度目の夏に、私は予測もしない危機を経験することとなった。私は6月の末から体調を崩し、発熱のために数日学生寮で寝込んでいたが、いよいよ夏休みを迎えることになり、派遣されている三島での集会の準備のために、7月3日(金曜日)の朝はどうにか起き上がり、洗面をしていたところ鼻出血があり、それがなかなか止まらなかった。そこで学校側が相談の上、東京共済病院に搬送されることとなった。それは、エヴァグリーン英会話学院の創立者でもある内藤常司氏の親しい方がその病院の事務長をされているとのことからであった。搬送用に用いられた車両も救急車ではなくその事務長の方の個人所有の車であったようだ。

私はそのまま手術室に直行し、とりあえず止血のための処置が行われたが、これがなかなか大変で大量の細長いガーゼのようなものが用いられ、鼻腔の奥の方で結ばれたようであった。あまりの傷みに私は大声を出し、学生会から私に付き添っていた副会長の尾高登美子さん(後の前田八十夫人、故人)の手を強く握りしめていたようだ。

止血に1週間程を要し、安定した後に手術となった。診断は「鼻中隔湾曲症」で、鼻腔内で出っ張った部分に欠陥が浮き出し、そこから出血しやすいとのことであった。手術は椅子に座って部分麻酔で行われたので、鼻の骨を削る音を自分でも聞くことができた。

大変だったのはその夜で、発熱のため夜通し氷で冷やすことになった。解熱剤を使用しているので、痛み止めを使用できないとのことであった。氷を取り換えるのに何度もナースコールをし、病院には大変な迷惑をかけたように記憶している。

結局退院したのは7月25日で、三島のアサインメントはその年に入学した藤井力氏に代役をお願いした。これは後日、先輩の柴田幸士に継承され、結局柴田氏は卒業後三島に赴任、その教会は退職し、働きながら開拓伝道を行い、三島市で後の生涯を過ごすこととなった。

退院後も夏休みの期間病院に通院し、その夏は完全に療養の夏であった。『キリスト新聞』の取材が行われたのはこの時であり、取材の名越記者から大浦八郎氏が編集長であることを知らされ、後日大浦氏とも会うことになる。すでに書いたように、大浦氏は大鷹沢中学校において私の兄と同級生、私が中学生の時に教育実習生として英語を担当されていた。父親は天桂院の檀家総代人であり、八郎氏は白石高校における私の先輩でもあった。

聖契神学校は、目黒駅であれば、目黒通りをバスで「元競馬場」まで行くか、渋谷駅であれば、東横線で祐天寺まで行き、「祐天寺裏」を目標にしばらく歩くことになる。目黒通りに接続する「油面通り」の外れに近く、「大塚湯」という銭湯が近くにあった。内藤常司氏が経営するエヴァグリーン英語学院は祐天寺駅の近くで、内藤氏は若い時代にカベナント教会が経営するシカゴの「ノースパーク大学」に留学し、目黒カベナント教会の会員でもあった。

東京共済病院は、今では新しい建物になっているが、中目黒から少し歩いた目黒川沿いにある。近くには「さくらテラス」と呼ばれる公園もあり、目黒川沿いは桜の名所でもある。また、毎年目黒川沿いの「田道公園」では「目黒SUN祭り」が開催され、私も2011年まで毎年「焼き隊」として参加していた。それは、目黒が第二の故郷であること、また、気仙沼の人々が夜を徹して5000尾のさんまを運んでくるからでもあった。2011年の「SUN祭り」では、津波を経験した気仙沼の人々の話に多くの涙を流したものだ。私が目黒のこの地域をさ迷っていた1964年からすでに半世紀近くが経とうとしている。
<写真1>『キリスト新聞』の掲載記事
<写真2>現在の東京共済病院
<写真3>桜の名所でもある目黒川
<写真4>田道公園で開催される「目黒SUN祭り」
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