路傍に生きる

路傍に生きる

出発の地
 すでに終着点の見通しを立てなければならない時に至って、少し自分のことを明らかにしておきたいと思います。
 私は、昭和20年(1945年)3月、まだ収束することのない戦争の中、宮城県刈田郡大鷹沢村の「天桂院」という臨済宗妙心寺派住職の四男として生まれました。小学2年生から花売りをした経験もあり、自分の生涯の敵は、「貧困」「病弱」「無知」であると考えて育ちました。

運命の「がんがら橋」
私は、昭和38年(1963年)4月、故郷の「がんがら橋(雁狩橋)」を渡って上京し、キリスト教の教職者を養成する神学校に入学し、25歳まで学びましたが、思うところあってキリスト教の教職者にはならず、26歳で米国系の出版社に就職して10年間勤務し、36歳で独立、世界最初の日本語によるオンライン百科事典を開発し、さらには、現在まで30年以上に渡ってロングセラーを続ける「ヒムプレーヤー(讃美歌自動演奏機)の開発コンサルタントとしてプロジェクトに参加しました。

日本情操文化研究所の設立
現在の活動の拠点である「日本情操文化研究所」は、平成14年(2002年)、日本画家の工藤甲人(東京芸術大学名誉教授)、工藤市兵衛(愛知工業大学名誉教授)、渡辺健治(共立女子大学名誉教授)、渡辺康磨(元玉川大学教授)各氏の協力を得て設立し、情操と文化についての学際的な研究を行ってきました。

例えば「故郷」とは
私が生まれた当時の村の戸数は373でしたが、昭和16年(1941年)~昭和20年(1945年)の間に戦死した村の若者は291人にもおよびました。その結果、村の生産活動は停滞し、私が中学を卒業した頃は次男、三男の生活の場は村にはなく、中学を卒業した子どもたちの多くは「がんがら橋」を渡って集団就職列車で上京したのです。そして現在、「兎追いしかの山」は放射能汚染によって木材の焼却灰の始末が難航し、「小鮒釣りしかの川」で釣りはできても食べることができない状態になっています。

世界を根底から問う役割
 終着点までの限られた時間に自分が果たそうとしている役割は、できるだけ世界の根底を問うことです。例えば長尾眞(元京都大学学長、前国立国会図書館長)は1996年に、「現在の本は20年~30年後には事実上すべて電子的に出版される」と語りましたが、それから20年近くを経た現在そのような兆候は表れてはいません。長尾理論に対して、私はいくつかの論文と国際会議でこれを否定し、その論文が収録された書籍は世界のおよそ90の図書館に収蔵されています。
 またある高名な評論家が、「反原発で人はサルになる」と語りましたが、私は「猿の惑星を破壊するのは人間」としてこれを否定しました。
 私は、終着の時まで、このような仕事を継続する考えでいます。
<写真①>運命の「がんがら橋」
<写真②>故郷の「大鷹沢」の田園風景
<写真③>国際会議での研究発表
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