1964年頃のファンダメンタリズム

1964年の私の入院の前後の出来事のひとつは、6月23日(火)~24日(水)に行われたJPC(日本聖書信仰同盟)の講演会である。挨拶をしたのは、当時日本キリスト改革派東京恩寵教会牧師であった常盤隆興、講演は神戸改革派神学校の岡田稔であった。フロアからの発言者で印象に残っているのは、米国長老教会のW・A・マキルエン(William A. McIlwaine, PCUS)と、美濃ミッションのエリザベス・アリス・フィウェル(Elizabeth A. Whewell)であった。

常盤隆興は、東京工業大学の前身である東京高等工業学校、東京神学社を経て米国のウエストミンスター神学校に留学、プリンストン神学校から分離・独立したグレシャム・メイチェンの指導を受けたファンダメンタリストである。岡田稔は常盤より5歳年下であり、神戸中央神学校を経て米国のウエストミンスター神学校に留学した。この二人に蔦田二雄、安藤仲市、堀川勇、松尾猛、舟喜順一、尾山令仁等が加わってファンダメンタリズム運動をけん引し、実務的な面は、東京神学塾出身の泉田昭、村瀬俊夫が後年までこれらの運動を支えたのである。堀川、尾山、泉田、村瀬は共に私が在学していた聖契神学校で教鞭をとっていた。また、この運動から誕生したのが、「新改訳聖書」であり、当初は堀川が主事を務めていた。

米国長老教会の宣教師であったマキルエンは、もともと日本で宣教師の子として生まれ、戦前の1919年から1942年の間日本での宣教師として活動、戦時中は米国に戻り従軍牧師として活動した。戦後、再び日本に戻り、宣教活動を行った。

美濃ミッションのフィウェルは、美濃ミッションの創立者であるセディ・リー・ワイドナーの秘書として活動していたが、1939年12月24日、ワイドナーが米国へ帰国する船中で急死したこともあって、戦後フィウィルは再び来日、美濃ミッションの二代目主管者として1990年まで任務に就いた。

「美濃ミッション」というのは、1918年に米国の宣教師セディー・リー・ワイドナーによって設立された伝道団体で、信徒の子弟が神社参拝を拒否したことによる行政や地域住民の激しい迫害にされたことが知られている。米国の歴史の中では、キリスト教による異端の排斥、弾圧事件がよく知られているが、近代の日本では「ひとのみち」や「美濃ミッション」事件が、宗教弾圧の典型的な事例として知られている。

日本のファンダメンタリズムはこの時代に新しい段階を迎え、やがて「福音主義」(エヴァンジェリカリズム)に収斂するようになる。この時点では、私の記憶では、日本基督神学校を拠点とする「日本聖書教会協議会」(Japan Bible Church Council)はこのJPCの運動には参加せず、独自の道をたどっていたように思う。もともと『聖書時報』という機関誌の編集を手伝っていた宇田進氏は、1958年に米国に留学し、1964年当時は、ウエストミンスター神学校に在学中であった。私が、米国で学位を取得して帰国した宇田進氏と初めてお会いしたのは、1967年の夏、卒業論文の準備のために、杉並区の堀の内にあった日本基督神学校に森俊道氏の居候として滞在していた時であった。かつて長谷川真太郎によって米国から持ち帰られたファンダメンタリズムの伝統が、以後宇田進氏によって新たに「福音主義」の方向へたどることとなったのである。

この時期のもうひとつの出来事は、7月13日(月)から軽井沢で開始されることになっていた米国のフラー神学校の夏季講座に、すでに参加登録を行っていたにも関わらず、私が急な入院のために参加できなくなったことである。これは、フラー神学校の2単位として認定されるものであった。フラー神学校は、1947年に39名の入学者を擁して設立された神学校で、初代の校長はハロルド・オッケンガ(Harold John Ockenga)であった。設立メンバーには他に、チャールズ・E・フラー、カール・F・H・ヘンリー、ハロルド・リンゼル等がいた。それは、従来のファンダメンタリズムを改革することによって、より時代に対応させようとする運動でもあったが、後年その「進歩性」をさらに加速させて、現在では心理学専攻も含む、世界70ヵ国から4500名の学生を擁する世界最大の神学校になっている。もちろんその間には、ハロルド・リンゼルの『Battle for the Bible』に見られるような熾烈な論争も行われたようである。しかし、総体としては、私の認識では、ファンダメンタリズムの歴史的な展開の一面以外の何物でもないのである。


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