あほばらの夏、2014

あほばらの夏、2014
画像


去る8月24日、故郷で開かれた「古希を祝う会」に出席した。昭和35年3月に中学校を卒業したのは、71名で、そのうち、存命者は63名、出席者は29名で、半数は地元の人々である。長年同期の人たちと「申酉会」という組織をつくり、地元の人たちが中心になって集まりを企画し、運営してきたが、すでに高齢となったので、すでに解散したものだ。今回は、「古希」を機会に有志の人たちが協力し、集まりが開催された。

私たちが生まれたのは、昭和19年(1944年)4月~昭和20年(1945年)3月で、当時はまだ日本が「大日本帝國」と呼ばれていた時代、旧大日本帝國憲法の時代だ。その村は宮城県刈田郡大鷹沢という戸数わずか373戸の村だ。その小さな村から出征して先の大戦で戦死したのは291人で、村は、単に彼らの人命を失っただけではなく、以後の村の将来さえ失ったのである。この一事をとっても国家間の紛争を武力で解決しようとすることがいかに愚かなことであるかがわかる。「国益を守る」という大義は虚構であり、実態は「未来にわたって国益を失う」以外のなにものでもない。

だが、私が最も感動しているのは、私たちの中学校の教師でもあったある戦争未亡人の
一族だ。S先生の夫はまもなく終戦を迎えようとする昭和20年6月26日に南方海上で戦死した。戦争未亡人となったSさんは、戦後私たちの村の中学校の教員となって残された3人の娘たちを育て、今や、その子や孫たちが地域の様々な役割を担っている。国家の愚作や戦争の犠牲を乗り越えて生きてきた人々は、戦争で失われた人々のかくされた希望を叶えることを結果的に実現したのである。

午前9時頃の新幹線で東京を出発し、11時少し前に白石蔵王に到着。以前は駅から徒歩5分のところに120坪の土地を求め、12坪の小屋を建てて、自転車や空気入れ、草刈り鎌等を置き、年2回帰った際には、使用していた。それは17年間に及んだが、その土地も今は処分してしまったので、今回は徒歩で、と思って歩き出すと予想に反した暑さに断念。タクシーでと思って傍らをみると、なんと待っていたようにレンタサイクルがあり、「渡りに自転車」と早速借用。あほばら(天桂院)や父の墓所のある大鷹沢(旧大鷹沢村)に向かった。

周辺には、かつてテレホンカードの製造では国内有数の拠点であったトーキンの白石工場があり、今は看板が「NEC」とだけ表示されている。仙台市長町のトーキン本社白石移転の計画も沙汰やみなのか、予定地は更地のままで雑草が生えるに任せている。工場の横を通って天桂院までの道はほぼ一本道であり、おおげさにいえば、岩手県玉山村の啄木が育った寺への道にも似ている。掲載した写真の右手奥が現在の小学校で、校庭の除染が完了している。写真の中央あたりが昔の中学校で今は閉校となり、青木製作所という企業の工場だ。その中学校の崖上が天桂院の前身「長陽寺」の跡地だ。この写真の反対側には、蔵王が聳えており、18年間は蔵王を見て育った。この山は「忘れずの山(不忘山)ともいわれる。

この村を自転車で回るのは、長年の単独の恒例行事ではあったが、震災後は初めてだ。友人たちからは放射能を含んだ木材の焼却後の灰の始末でもめていること、川魚を釣っても食べられないこと等が知らされた。原発から70キロメートル以上も離れているのに、その影響は計り知れないものがある。もはや「風評」などではなく、現実を正確に把握し、確実な対策を講じることこそ急務なのだが、「虚構」と「隠蔽」を進める我が国の政治委員会に頼ることは絶望的でさえある。我々の国土は、武力による紛争を待たずに、内部から崩壊するかも知れない。

およそ30名が出席して開かれた「古希を祝う会」は、「70年一日の如し」で、田舎の無名の川で泳ぐような解放された時間であった。

<写真>新幹線の駅から向かう大鷹沢と天桂院周辺。

"あほばらの夏、2014" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント