「がんがら橋」から50年。

「がんがら橋を渡るとサットの家だった」というのは、就学前の長女を寝かしつけるために毎晩語り聞かせた「大鷹沢物語」の冒頭の一節だ。この橋(雁狩橋)は、私が生まれた宮城県刈田郡大鷹沢村と、東北本線白石駅のある白石町を結ぶ主要な橋で、「斎川」という川に架けられている。斎川という地名は奥州街道の「斎川宿」で、「斎川」は、福島県との県境に接する越河を出発して白石川との合流点までの14.835メートルの河川だ。

「サット(同級生の佐竹利君で後年棟梁となった人物)の家」を少し歩くと「スッツァン」の大きな家がある。「スッツァン」は旧国鉄の白石駅に勤務し、たしか駅長も務めた人物だ。その家には当時としては珍しい手回し回転式の洗濯機があり、中学の野球部の泥だらけのユニフォームを大量に持ち込んで洗濯していただいたことがある。そればかりか、ついには洗濯機自体を学校に持ち込んで、たまったユニフォームを一挙に洗濯したこともある。今でこそフェイスブックを通じた友人である岩堀(旧姓鈴木)弘さんは、「スッツァン」の息子で、この村から出て情報処理の分野で成功した人物だ。私より3年下の彼に一度だけ会ったのは、「スッツァン」の家の傍で、当時はつるつるの顔をした少年であった。何十年かを経て再会した時には彼はすでに経営者で、「スッツァン」そっくりの顔になっていた。

私たちの村から戦争に参加した多くの青年たちがかつてこの橋を渡り、129名の人々は再び村に戻ることができなかった。その中に、インターネットを通じた友人たくのすけさんの曾祖父重森清さんがいる。彼はまもなく終戦を迎えようとする矢先の1945年6月26日に東方海上で戦死している。戦争未亡人となった妻都さんは、残された3人の娘さんを立派に育て、その内のひとりの方の孫がたくのすけさんだ。都さんは私の中学の先生で、私の兄弟4人共がお世話になった。

私の生まれた村は、今でこそ一家に複数の乗用車があり、ピアノを学ぶ子どもたちも多くなったが、私の時代は、電話は役場や駐在も含めて5台位しかなかった。だから、次男坊以下の人たちは村では暮らせないので、中学を卒業した多数の人々がこの橋を渡り、集団就職列車に乗車して都会に向かったのである。

私は、1963年4月5日にこの橋を渡った。以来半世紀が過ぎ、娘や孫たちが世田谷の近隣に暮らすようになった。かつて駅へ向かう道すがら、すでに中学の教員を定年で退職していた重森都先生に出会い、餞別としてチョコレートをいただいたことが記憶の中に今も鮮明に残されている。
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