大島正健とその一族

上京して5年目、神学校の最終学年であった1967年は、それまでの神学校生活の中で最も密度の濃いものであった。その年の夏休みはもちろん、すでに新学期が始まってからの3ヵ月間にも様々な経験をすることとなった。

当時参加していた東京聖書教会では、教会学校の教師として小学科を担当することとなり、私のクラスは小学5年生であった。新しい学期を迎えた教会学校の最初の取り組みは生徒の家庭訪問である。1967年6月11日、私は、目黒区中根町の故大島正満氏宅を訪れた。面会したのは、大島正満氏の5男正泰氏の夫人であった。その時いただいたのが、1965年6月26日に亡くなられた大島正満氏の遺稿と関係者の回想を収録した『魚影―大島正満の遺稿と回想』(大島智夫編,1965年刊)である。

大島正満は、1884年(明治17年)6月21日、当時北海道の札幌農学校で教鞭をとっていた大島正健の長男として札幌で生れた。札幌の小学校を卒業後、同志社中学、私立奈良中学、神奈川県立第一中学校を経て第一高等学校で学んだ後、1908年、東京帝国大学理科大学動物学科を卒業した。

大島正満の父正健は、安政6年(1859年)7月15日、現在の神奈川県海老名市で生まれ、1876年、自ら志願して当時新設された札幌農学校(当初は開拓使札幌学校農学専門部)に第一期生として入学、当時1年間の予定で教頭として米国から赴任していたW・S・クラークと運命的な出会いをし、1877年、「イエスを信ずる者の誓約」に署名、正健はその年に洗礼も受け、卒業後、1886年から1892年の間は、札幌独立教会の牧師の職にもあった。第二期生の内村鑑三に入信を勧めたのは大島正健といわれ、我が国の無教会運動の根源的な発端は、札幌農学校第一期生の大島正健であり、その信仰は長男の大島正満に継承され、その子大島智夫によって補ていされた大島正健・正満共著の『クラーク先生とその弟子たち』(1993年刊)は、これらの精神的伝統を伝えるオリジナルな情報を提供している。

大島正満が、目黒区中根町へ転居したのは、1933年のことであるが、1935年には、柏木にあった「今井館聖書講堂」が、目黒区中根町に移築され、2003年に新築された資料館と共に、近代の精神的運動としての無教会に関わる重要な資料センターとなっている。私が目黒区八雲の東京聖書教会に所属していた頃は、矢内原忠雄氏の自宅も近隣にあり、大島家と共に運動を支えたであろうことが窺える。私が後年家族と共に目黒区碑文谷に居住していた時代には、中根町は、毎週の私の散歩道であったが、今井館聖書講堂の近隣には、大島正満の八男智夫氏の表札が存在した。名著黒崎幸吉の聖書注解のデジタル化を行ったのは、たしか智夫氏のご子息である。そして、1967年当時、私が担当していた教会学校の生徒であり、まだ小学生であった大島正満の孫は、現在ヨーロッパ在住の世界的なピアニストになっている。

もうひとつここで記録しておきたいことがある。それは、中根町移築前の今井館聖書講堂、すなわち、新宿・柏木の内村鑑三邸の近隣に当時住んでいたのが、長谷川真太郎(真)の父長谷川周治氏であった。それはおそらく大正5、6年ごろであったであろう。長谷川氏の居宅は淀橋教会の向かい側であり、当時の牧師は小原十三司、監督は中田重治であった。中田重治の子羽後は、長谷川周治の子真太郎が米国の大学を卒業する際に卒業式に出席しており、相互に親しく交流していたが、その淵源は、柏木にあったのかも知れない。長谷川周治は、内村鑑三に心酔しており、その『遺墨帖』等の出版を行っているが、戦時中は、逮捕された無教会の伝道者たちの支援者でもあった。その子真太郎が戦後帰国して「東京神学塾」を設立して我が国のファンダメンタリズム(いわゆる福音主義を含む)の指導者たちの養成に従事したことは、まさに奇遇ということができる。
<写真1>『魚影―大島正満の遺稿と回想』
<写真2>当時の教会学校担当クラスの子どもたち
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